縁~出会いの物語

09.03.08 日曜日

レッドアリーマ

すっかり想い出しブログの色濃くなっていますが。

まぁ、なかなか「みんなのことを想い出すブログです!」ってのは
世界でも類を見ないと思うので
そういうとこの代表としてもガンバって勢い打鍵してゆきますよ、あっしゃあ!

"淫靡な淑女"有馬友恵を想い出す。

最近、メールもらったし。

彼女との出会いを思い出してみる。

「私には夢がある」というグループで彼女に初めて出会った。

初対面のことはよく覚えてない。

気づいたら、いた人だ。

グループでいると、新しい人が現れても気づかないことがある。

みんなが「有馬さん有馬さん」と騒いでいるので
ああ、そういう人がいるのね、と気づくのである。


そして自然解凍のように邂逅する。

その場合、初対の印象は残らないわけだ。

初期の彼女と己の関係は最悪だった。

互いにトゲのある言葉で傷つけ合ってた。

手紙を開封する用の小さなカッターナイフで傷つけ合っていた感じだ。

まぁ、これもまた彼女にすれば
「ええ?私、そんなつもりなかったけど」と言うかもしれないが。

それは別にそれでいい。

その最悪からどう脱したか。

人間関係は野口さんがおっしゃるように「鏡の関係」なのです。


彼女は彼女にしかない熱さを秘めた魅力的な人であり
己がそこに惚れ込んだ時、関係は変わったのです。

投稿者 多苗尚志 : 20:53
[ 有馬友恵伝縁~出会いの物語おもいだします ]

09.03.04 水曜日

ちゃ蔵を思い出す

"哀愁のチャタ"長井健太郎を思い出す。

彼との出会いについて。

彼は"太陽王子"岩下均のサークルの先輩だった。

均が敬愛してやまない先輩だったので、均の誕生日サプライズに参加してもらうことにした。
そのサプライズとは均の周りの人々からお祝いの一言を集めてテープに録音するというもので、己はスパイ技術を活かしてなんとか長井氏に電話をかけた。

初めて電話で話した時のあの怪訝そうな感じはよく覚えている。

『なんだよ、ノリ悪ぃな。(均が敬愛する割に)たいしたことねぇ奴じゃん』
電話で丁寧語を使いながら己はそう思った。

(後年、いきなりであんな電話は怪しいでしょ、と応酬された。)

折々の機会に触れ均と己がルームシェアしていた家にもよく遊びに来るようになり懇意になった。

彼の新潟の実家にもいったことがある。ご両親にもお会いしたことがある。

彼はなんというか、すごく楽しそうな人だ。

ファッション、音楽、持ち物、エンターテイメントを観る目...

すべてがオリジナルで自由だ。

己はおしゃれな人が好きだ。

それも自分でファッションを作り出している人、作り出せている人。

ちゃ蔵はまさにその人だ。

人と比べてどうだから、楽しそうなんじゃなく、
彼が楽しそうな笑顔をして生きているから楽しそうだ。

折り目正しく真面目な一面もあって、それが己と反発したりすることもあるけど
なんというか味のある奴でね。

好きなんだよね。

投稿者 多苗尚志 : 13:54
[ 長井健太郎伝縁~出会いの物語おもいだします ]

09.02.04 水曜日

川島賢一と

"キン肉パスタ"川島賢一との出会いを思い出す。

2000年からルームシェアを始めるために、"太陽王子"岩下均と己は、
ルームシェアの物件およびメンバーを探していた。

メンバーは旧知から探してもよかったのだが、やはり新しい人間関係を始めたいと
いうことでネット上の当時はまだ珍しかったルームシェア掲示板で
ルームメイトを募集した。


我々は外国人が釣れることを期待していたのだが、何人かの
日本人からの連絡があった中の1人が川島賢一だった。

自己紹介がダーッと十行以上書いてある応募メールだった。

当時、自己紹介を長々とする奴に嫌悪していた己は、
「本当にすみません。もう、見つかってしまって」とメチャ体のイイ返事で断ったった。


ところが、自分たちで決めていた期限の1ヶ月を過ぎても
ルームメイトの人数が揃わない。

人数が少なければ当然、家賃も上がってしまう。

仕方ないと思った己は、もう一度賢に
「空きが出たけど、どうする?」的なメールをしたところ、
己との9年のつきあいの中でも、1回しか怒ったことがない、
その超級の穏和さをもって、つぅか、己のこそくな裏事情など気づいてなかったかもしれず、
まんまと一緒に住むことになった。

初めて飯田橋の改札で面を合わせた時も、パッとしない奴で
「まぁ、つまんねー奴でも家賃は浮くんだからいいか」くらいの悪人正機説であった。

賢の味については、その後五年のルームシェアを通して徐々に気づいていく。

悪寒がするほどのひどいギャグセンス。

だが、人に対する寛容度の高さ
(それは時に人当たりが弱く頼りないという見方もできるがさに非ず)、

自分の人生に真摯で苦しい道も真っ正面から歩む実直さ、

悪寒ギャグに関連するが、それはつまり、他に影響されることのない独特なマイペースを有しているということだ。


2000年までの己の人生で出会わなかったタイプ。

いや、出会ってはいたが、友達にはならないタイプだった。

己の人生で背景として流れるタイプ。


以前、幼馴染みについて言及したことがあるが、

幼馴染みという関係においては
水に対する油のような人間との
成人してから出会った時に絶対友達にならないような人間との親密な関係が
ありうる。

それはなぜか。

つまり、究極的に人は相性やタイプなど関係ないのだ。

そんなものは"ドリップする圧倒的な無駄な時間共有"でもって乗り越えられる。


ただ、年を重ねるにつれ、親しさの障壁となるしがらみが大きくなるだけ。


己は、幼馴染みとして川島賢一に出会ったことよりも
成人してから出会ったことを幸福に思う。


※己は"キン肉パスタ"川島賢一との出会いを愛しく思う。

投稿者 多苗尚志 : 08:56
[ 川島賢一伝岩下均伝縁~出会いの物語 ]

09.02.02 月曜日

パラサイヨとの出会い

己の人生に大きく影響したパラサイヨとの出会いは、以前、"夢プロデューサー"和田清かとの出会いとして紹介させていただいたが、

「初春のお披露目会」とでも題そうか、あの時、"大将"池本多賀正、"情熱のFinancePlanner"長尾好則と出会ったことに起因している。


その時は出会っただけで、彼らがそんなことをやっているという話も聞いていなかった。

後に2人からパラサイヨのイベントメールがやってくるようになるのである。

そして、それから実際にイベントに参加するまでも重い腰だったので
「初春のお披露目会」はじわじわ効いてきた出会いだったと言える。

パラサイヨのイベントメールが来ていたが、くっだらねぇと思っていた。

そんな、フィリピンの孤児なんかどうでもいいよ、と思っていた。

でも、友人がやっていることだから、カンパを求められれば
その金だけ払おうと思っていたが

イベントに来てくれと言う。

その頃、己は自分でおもしろおかしくやっていたし、人との出会いも全然足りていたので
まるで興味はなかったが
"情熱のFinancePlanner"長尾好則が、パラサイヨでイベントの責任者となり、
そのイベントにゲストとして来て欲しいという

まさに三顧の礼にも値する礼を尽くしていただき、やっと動いた。

彼らとの出会いから2年後くらいだろうか。

そして、その日に池本多賀正から"正統な異端者"森村隆行を紹介してもらった。

あの人と握手した瞬間は今でも覚えている。

三浦友和さんに似ていると思った。

瞬間にして、「この人は人物だ!」と思い、この人がいる団体なら面白いかもしれないと思ったのがパラサイヨに入団するきっかけだったと思う。


パラサイヨで学んだものは非常に大きい。

すべての人生は必然である。
どの道に行こうが自分の人生であり、全て肯定されるものである。
その上で、パラサイヨと出会っていなければ違う人生になっていたと言いたい。

投稿者 多苗尚志 : 13:42
[ 森村隆行伝長尾好則伝池本多賀正伝PARASIYO伝縁~出会いの物語 ]

09.02.01 日曜日

金房智子と

金房智子は彼女が二歳のときに出会った。

もともと、うちの隣が金房家で、毅と三津子がいたのだが、
親父様の都合でアメリカへ行ってしまはれた。

何年かして金房家がうちの隣に還ってきた時に、智子がいた。

おや、こんにちは。


昔から美少女でした。

幼稚園のクラスメイトなんかは、みんな智子のことが好きだったのですが
智子は己のことが大好きでした。

まだ続きがあるのですが、こういうことあんまり書かれると恥ずかしいでしょうから
この辺でやめておきましょう。

今はダンサーで某テーマパークで踊っていらっしゃいます。


二歳から知ってる友人というのはなかなか貴重です。

投稿者 多苗尚志 : 11:49
[ 金房智子伝縁~出会いの物語 ]

09.01.31 土曜日

丸山晶太郎と

丸山晶太郎といつが初対であったかは覚えていない。

気がついたら「己の人生にいた」。

少なくとも小学校の一年で会っていたのは確実である。

登校班があったから、そこで毎朝会っていた。

マンションの同じ棟でうちのひとつ上に住んでいた(る)。

ひとつ年上。


同じ小学校というくくりであれば、他にも年上はいたが五つとか離れていたので
己の場合、そういう方はつきあいのレンジに入ってこなかった。

晶ちゃんは手頃だった。

登校班だけのつきあいだったが、小学校三年の時に弟の丸山耕次郎とクラスがいっしょになったところから、つきあいが濃くなっていく。

投稿者 多苗尚志 : 09:18
[ 丸山晶太郎伝縁~出会いの物語 ]

08.07.26 土曜日

生涯最高の友人

1978年の春先だったろう。
 
 
 
僕らは3歳で出会った。
 
 
小学校の1、2年生が同じクラスだった。

その時に初めて彼の家に泊まり、一緒に宿題をした時の
部屋の風景や電気を消した暗さを今も覚えている。
 
 
彼が103号室で己が203号室だった。

床を開けて階段をつければいいじゃないかと
夢想した回数は100回じゃ利かないと思う。
 
 
 
彼の誕生日は己の誕生日の月日をひっくり返した日付だ。
 
 
わずかに早く生まれた己は腕力で敗けることはなかったが、
口ゲンカでは涙をにじませたことが何度かあったが、総じて9割が己の勝率だった。

 
下痢腹を抱えて彼の家で遊んでいる時のこと。

やっぱり我慢しきれずに家に還ろうとしたのだが
間に合わなくて、彼の家の廊下に
点々と漏らして家まで還った。

恥ずかしくってしょうがないけど
戻って拭くわけにもいかないし、
どうしようもなく家で寝ていた己に
お見舞いでやってきて
「落とし物があったよ」と
バカにするでもなく、からかうでもなく
ウィットの利いたあの笑顔を今でも鮮烈に覚えている。


おばちゃんとおじちゃんは己を家族として扱ってくれていた。

明日香は妹として彼よりも己と仲が良かった。
隆之は才能があるのに自信がない奴だった。
北斗は手のつけられない悪ガキだった。


今にして思えばだが、己は5人兄弟の長男だったのかも知れない。


去年になって、婚約者を紹介された。

だから結婚することは分かっていた。

子供同士他愛もなく
「オレの結婚式なんか100段のウェディングケーキで...」
「オレは1000段だぞ!」
結婚式のことをあーだこーだとまくし立ていた。

遠い遠い日にいつか来る、結婚式について。


招待状はおじちゃんの名前で送られてきた。

タイムカプセルから届いた手紙みたいだった。

「家族と一緒に座ってもらうから」と言われていた。

隆之と北斗と北斗の奥さんの真由美さんと娘の優愛ちゃん、息子の太陽くんに会い(隆之も北斗も分からないくらい顔が変わっていた)(そして太陽くんは昔の北斗にそっくりだった)、
おじちゃんとおばちゃんと一緒のタイミングで席に着いた。

10年を超える再会だが向こうも敬語なんか使ってこない。


小学校の5年が最盛期だったろうか。

己は、家の「下の部屋」には363日くらいいた。
もちろん、チャイムなんか鳴らさない。

彼はワケの分からないこだわりで
「ファミコンは絶対に買わない」として
セガにこだわりつづけていた。

毎日セガをやっていた。

彼と己ばかりがやりまくり
隆之と北斗はかわいそうなくらいやらせてもらえなかった。


学校は小学校と中学校が一緒だったが
同じクラスになったのは小学校の1、2年だけだった。

その1、2年の時も学校では特別一緒にくっついてるわけではなかった。

彼はなんというかゴーイングマイウェイで
己もあまり多数派ではなかったが
彼は更に少数派。つぅかオンリーワンだった。

彼の昔の回想によると
「みんなが自分を変わり者として扱ったが
己だけが普通に接してくれた」と言う。

あまり自覚もなかったのだが
思い出してみるとそうだったかもしれない。


中学の時、松村家は同じ町内へ引っ越してしまった。

高校も違う学校に別れた。

予備校で再び一緒になったが、彼は理系だったので
まず会わなかった。

大学も違う。


殊更に会おうとしなかったし
殊更に会わなければ会わないまま過ぎてしまう。


そして今日がやってきた。


大学の研究室の恩師だという方が乾杯の挨拶をされていた。


「薬の実験というものは、非常に気の遠くなるような単純作業の繰り返しであり、壁にぶつかってしまった時には何千回やっても結果が得られないということも珍しくない。
私の研究室では毎週土曜日に研究の報告会をするのですが、
彼が実験のリーダーを務めていた時に壁にぶつかってしまったんですね。それで毎週毎週の報告会で『まだうまくいきません』『まだうまくいきません』と報告をし続けるわけです。それが半年も続いて...
私もたくさんの学生をみていますが、たいていはやはり半年も経たないうちに、投げ出してしまったり、やる気をなくしたり愚痴が出たりするんですね。しかし、彼の場合はまったくそういうことがない。
『まだうまくいきません』と報告し続けるだけなんですね。
そしてある日、ぼそっとですよ。
ぼそっと『うまくいきました』ってそれだけなんですね。(会場笑。)うまくいかない時もうまくいったときもなんら調子が変わる様子でもない」


そう。

 
そう。

そうなんだよ。






会場にあって己は完全なアウェーだった。

己は松村家(と奥さん)以外に知る者がいない。

100人くらいの席にあって己はアウェーだった。

ふざけるなよ、己こそ正統なんだぞと主張したかったが

他の人もまた同じ気概で彼を愛しているのだろう。


おばちゃんとおじちゃんは静かに目を潤ませていた。

おじちゃんが涙を浮かべるのは初めて見た。


隣の隆之と話をするが
相変わらずなにをしたいという様子でもなく
己もなんか力になってやりたいと思うのだが
相変わらずなんにもしてやれるようでもない。

隆之と北斗は生まれた時から知っている。


「みんなにそれぞれ手紙があるみたいよ」
おばちゃんが言うのでテーブルの上をみてみると
確かに己にもあった。

「3歳で出会って以来、...云々...
 ひさしくんが本当の親友でした」

己は一読するとまた封筒に戻し
『スズキのポワレとハーブのパート ソースヴィエルジュ』に
またフォークをつけた。

手紙は式場に置いてきてしまったらしく
今手元にない。



互いに大学に入ってから、酒も交わした。
大学の友人と酒を呑むのは普通だが、
三歳からの友人と呑むのはどこかくすぐったい。

エロ本も同じだ。
彼とエロい話をするのは、母親にエロ本が見つかるような気恥ずかしさがある。


もちろん挙式からの出席をお願いされていたのだが、式にはなんとなく出なかった。

なんとなく遅刻をした。


披露宴では各テーブルに酒を注ぎに来るかと思ったが来なかった。

己が彼に一献差し上げにいけばいいのだが
なんだか億劫だった。

遠い家族席から彼が大学や会社の友人と乾杯しているのを
みているだけだった。

一応、己が出席しているのは分かられていたようだが
ついぞ披露宴中には彼と目を合わせなかった。






お色直しが始まり、新郎新婦は一時退場した。

ふたりのビデオが流れた。

写真とメッセージを使ったどこにでもあるようなビデオだった。


3ターン目くらいで己の写真が流れてテロップも流れた。


「生涯最高の友人
 多苗尚志」


誰が気づくだろうか。

この会場の9割以上の人に関係のないメッセージだった。

おばちゃんとおじちゃんも会場外に出ていたので
松村家のテーブルでも話題にならなかった。

己のことなど知らないし
メッセージ自体見ていなかった人も多かっただろう

そして

誰が己の気を知るだろうか。


ビデオは会社時代に進み
それがなにかの思い出の写真のようで、笑いが起こっていた。


己はナイフとフォークを置いてイスに深々と座り直した。

喧噪の中、ひとり、黒いダイヤル式の金庫を盗み開けるような静寂で
誰にも気づかれずに天井を見上げ、ゆっくりと息を吐いた。

結婚式場の白い豪奢な拡い天井と目が合う。

己が息を吐き終わるまでの数瞬、
天井は今ビデオを流しているプロジェクターよりも何倍も大きく、
数百枚の写真を駆け映す。

あの日あの日あの日

松村洋祐と一緒だったあの写真たちを。

目から離れないあの光景たちを。
 
 
 
披露宴は終わった。


宴全体を通して見えた彼の所作、あいさつは
まるで既に、1978年のあの日から分かっていたかのように
一言一句が、己に既視感を与えるものだった。


出口に新郎新婦が立っていた。

新婦さっちゃんと話をしながら
己は隣にいる新郎、松村洋祐と両手で握手をしていた。


さっちゃんとなにを話したか覚えていないが
冗談を交えて結構話したのでちょっとした時間だった。

その間ずっと洋ちゃんと手を握っていた。

さっちゃんとの話が終わって
洋ちゃんに視線を移した。

今日、初めて目を合わせる。


「今日はホントにおめでとう」

「ありがとう」

「いい披露宴だったよ。」

「うん、ありがとう」

己は手を離して会場を後にした。


※このエントリをもって松村滋弥、公子、隆之、北斗、真由美、優愛、太陽が友いるKIに入伝しました。

投稿者 多苗尚志 : 22:36
[ 松村洋祐伝松村滋弥伝松村公子伝松村隆之伝さっちゃん伝松村北斗伝松村優愛伝松村真由美伝松村太陽伝縁~出会いの物語 ]

07.12.27 木曜日

5年目の氷解

"光速の自由人"清水宣晶と晩飯を食べにいく。

なんか、米が喰いたいなぁ、コメッ!という話になったので

焼き肉を食べにいく。

焼き肉だとご飯がススムでしょ?

先ほど、"夢プロデューサー"和田清かと晶君がインタビューをしていたので
その影響もあって

『清水宣晶と多苗尚志のファイブクエスチョンマッチ!』

互いに質問をひとつずつし合う大会だ。


ここで!

清水宣晶とは、はや5年のつきあいになるが

ここで、初めて氷解した事実があったのでその話をしよう。


実は清水氏と己はサイアクの出会いをしている。

というか、己が一方的にサイアクだと思っているのだが。

清水宣晶と己が出会ったのは2002年

"黄炎社長"森田英一と"夢プロデューサー"和田清かの結婚パーティーの
メーリングリストにおいてであった。

メーリングリストには森田側の友人も和田側の友人もパーティー出席者がみんな入っていて
まだそれぞれ顔を合わせたことがないもののメール上であいさつを交わしていた。

清水氏は和田側の友人、己は厳密にいえば森田側の友人。

当日前1ヶ月間くらいそのメーリングリストは存在していたのだが
大体の出席者があいさつを終え、一週間くらい前に清水氏が登場した。

大体みんな、無難な自己紹介をしていたのだが
彼は

「清水宣晶と申します。

 仕事はSEをしています。

 質問があるのですが
 
 スライムベスのベスはどういう意味でしょうか」

100人くらい入ってるMLで3日間誰からも返事が無かったね。

スライムベスってドラゴンクエストのモンスターだけどさー
女の子わかんねーだろ。

3日目に返事したのは"イタリア系ハンサム劇人"黒澤世莉。

ふたりで盛り上がってんの。

己は『うわ、セリ、そんな奴相手にすんなよ』思った。


で、実際にパーティー当日になって清水氏を誰かから紹介されて
『うわ、スライムベスか...』と思った。

まぁ、でも己もテキトーに
「ねっ、清水さんね、面白いですよね。
 スライムベスってあんま考えたこともなかったですよね」

すると、清水氏
「あー、スライムベスね。はいはい。うん...。」

って、お前がふったんだろうが!

なんだよ、ノッてやったのに。

で、現在に至る。

己が今回の焼き肉で清水氏に尋きたかったことは

「自分の友達が少ない場所(アゥェー)での清水氏のふるまい」

についてである。

なんかいつも清水氏はアゥエーでは大人しくしている印象が己にはある。

もっと弾けてもいいのになぁとも思うのだが。

だが一方で、最近、やっと分かってきたのだが

彼の中の価値観として「空気を大切にする」というのがあるのだ。

彼は自分が原因で空気やバランスを壊してしまうというのを
すごく気にする人なのだ。

なので改めて尋いてみると、

やはり

まず、その場の空気を読むことを第一優先にしているとのこと。

しかし、ならば己が清水氏と会った一番最初のあの行為はなんだったのか。

「いや、あのね...」

清水氏が語り出す。

「言っておくけど、あれはさやちゃん(和田清か)に頼まれてしょうがなくやったんだよ。」

む!

今まで己が清水氏にこの思い出しをふっても、一緒になって笑っていただけだったが
今宵遂にあの謎が明かされるぞ。

「オレは、空気読まずにいきなり飛び出していく奴とかスゲェ苦手だし、自分がやるのも嫌なんだけど、さやちゃんから『清水くんにMLを盛り上げて欲しい』と言われて仕方なく...」

なんと

そうだったのか!

己は、初対面がそれだったからてっきり「そういう奴」だとずーっと思っていた。

空気を大事にするとか言う割に初対面から飛ばすやんけ、と5年間ずっと思っていたが
それは5年ぶりに雪が降ったくらいのたまたまのイレギュラーに過ぎなかったのだ。


あ!!!!


だから、あの時、スライムベスの話をふっても嫌そうに答えていたのか。

己はアウェーの清水氏をみると、いつも
「今日はつまらないのかな」とか「嫌な人がいたのかな」と気をもんでいたのだが
むしろ、それの方が清水氏の正しい姿だったのだ。

すごくスッキリした。

5年経って、ようやく謎が解けるなどというのは、とても壮大な体験で
これはどんな推理小説よりも面白いと思う。(清水氏的文体)

しかし、自分の主義を曲げてまでしてさやかの頼みに応えた清水氏だったがスライムベスでMLを盛り上げるのは無理があったような...。

※09.02.06加筆修正

投稿者 多苗尚志 : 09:39
[ 清水宣晶伝和田清か伝森田英一伝縁~出会いの物語 ]

06.11.22 水曜日

多苗尚志のサシ呑みクエスト 32 森田英一

倭[おとこ]とは、9年前に出会った。


9年前。


下北沢。


"クールな熱"藤沢烈が主催。


小規模ながら、全国から大学生が集まり、それぞれが取り組んでいる活動をプレゼンする場があった。


それぞれ前に出て、

「環境問題に取り組むNPOやってます」、「途上国の支援団体やってます」...

という具合に。


玉石混淆が渦巻く中、3人組の男たちが己の直感を惹[ひ]いた。


真ん中の倭がプレゼンをした。


「大阪から来ましたぁ。」


そんなことはどうでもいい。


取り組んでる活動は「主に日本の社会問題について語り合うメーリングリスト」

ということで、己も後にそれに加わるが、

その中身さえもどうでもよかったのだ。


「覚悟」が突出していた。


実際に行動している。


それはプレゼンに立った全員がそう。


だが、覚悟の量が違った。


やるんだ!


やるんだ!!


やるんだぁ!!!


客席のパイプイスの並び幅全部をぴったりカバーする大きさの

黒い鉄柱の底面、大きな大きな正方形で、

ところてんのようにオーディエンスをズズズーッと1m後ろまで一掃するような

「やるんだ」が彼から発されていた。


それでいて独りよがりではなく

「みなさんひとりでも多く、MLに参加して頂けたらと思います。」

という柔らかな協力の要請。


もう他の奴との出会いなんてどーでもいい。


己はこの倭とだけ話したいと思った。


倭は森田英一と名乗った。


---
9年のつきあいで、6年目が最後。


3年ぶりにサシで呑む。


俗に「何年ぶりに会っても昨日会ったみたいに話し合える友」という。


"黄炎社長"森田英一と己の関係は、

「何年ぶりに会っても~」なんてレベルはとっくにクリアしているが、

なにを話すかが問題なのだ。


昔話を朗々と語っても意味がない。


お互いを知る話をしても意味がない。


だって、いいとこも悪いとこも既にお互いよく知ってるから。


現在を語らなければ。


現在を語るには3年というブランクは長い。


いや。


白状すれば、己が臆したのだ。


社長として日夜激務の第一線を張る彼に対し、一介の営業マンである己がなにを語れるのか。


出会いに関しても気づきに関しても...彼に対し、目新しく己が語る言葉を持っているだろうか。


いやいや、立場など関係ない。


営業マンだろうが本気で生きていれば、その言葉は友の胸に刺さるハズだ。


己は久しぶりに彼に相対し、自分の生き方に迷ったのだ。


最近の自分の生き方に自信が持てなかったのだ。


悔やまれる。


臆したことが悔やまれる。


彼に比べると実際、己は本気の人生を生きていないかもしれない。


かたや社長を務め、並みいる企業の社長クラスと出会い、

日夜、3時間睡眠の激務を遂行。


結婚し、ふたりの子を設け、休日は父としての役割をまっとうし、

実家にもお金をドンといれて親孝行をしている。


自著も近々出版され、各種講演会、テレビ出演などの引き合いもある。


片や己。未だに結婚もしてない、仕事もフラフラしてるような己が

なにを語るというのだね。


臆したな多苗尚志。


人生に貴賤なし。


人生とは比べるものではない。


すべての人生は正しい。


己は間違いなく己の人生を生きている。


己は己の人生を愛している。


こちとら"最強無敵"


己は胸を張って自分の現在を語ればよかったのだ。


それが悔やまれる。


なんだかんだいって3時間は語り、

森田英一との呑みは実に気持ちがよく、己は自然と笑顔を浮かべ、

最高の時を過ごしたこともまた事実であった。



投稿者 多苗尚志 : 00:05
[ 藤沢烈伝森田英一伝縁~出会いの物語多苗尚志のサシ呑みクエスト ]

06.07.21 金曜日

藪下数馬壮行会

己の大好きな倭(おとこ)、“正統な異端者”森村隆行(森さん)に弟がいることは早くから聞いていた。

一緒に中国に旅行にいった話を聞いていて、その旅行記が気合武勇伝的で己好みで
その弟に会いたいと思っていた。

それが“若社長”森村泰明。

やすあきと己は同い年である。

やすあきとはいつが初対面か覚えていない。

どこかで森さんに紹介してもらった。

が、そのごくごく初期、渋谷のぷん楽で森さんとやすあきと3人で呑む機会があった。

ちょうどやすあきはそれまで勤めていた不動産ディベロッパーの会社を辞め、
自分でオフィス専門の不動産会社を設立。

それが「オフィスバンク」だ。

その独立の話を3人でぷん楽でしていたら、突然森さんが

「あ!」

「ひさしに取締役になってもらったら?」

今は違うが、当時は会社の設立に3人以上取締役を立てなければならず、
それにお母さんがなるはずだったのだが、あまり血縁をいれたくないと思っていて
どうしようかと思っていたところだったのだ。

己はホレ、出会って2回目の“柔らかい頭領”佐藤孝治に「多苗君も僕たちとルームシェアしませんか?」と言われて2日後に住んでいるような

『向かい来るオファーは全て受けきる侠』だからさ。
(※利害が見え見えだったり、礼と義を失したオファーは受けない。)

「はぁ」っつって取締役になった。

オフィスバンクと己の関係はそんなものに過ぎなくて
それでも、一応取締役だからってことで、忘年会など各種祭礼や節目の時なんかは
お呼びがかかる。

長くなったが今日は、そんな日だった。

社員の藪下数馬がオフィスバンクを退職するので、その壮行会があった。

まさに森村泰明と会っていなければ、森村隆行と会っていなければ
藪下氏と己の接点はなにもなかったわけで、奇縁に感謝である。

己は一応、取締役だから、やすあきひとりで、1人用のワークスペースにいた時から
知っている。

どんな会社になっていくのかと思ったが、今では社員も15人を越えた。

そして、今ひとりが新しい旅立ちに向かって辞めようとしている。

己は、普段のオフィスバンクも最近のオフィスバンクも知らない。
藪下数馬とも「おー、藪ちゃん」とあいさつは交わすものの特に語り合ったこともない。

静観する。

森村泰明率いるオフィスバンクは成長していて
社員も、社の文化もすばらしいものがある。

藪下数馬の壮行会はすがすがしい涙にあふれていて、
己は
「熱血の者」「努力の者」「成長する者」「本気で生きる者」たちを
目の当たりにしたのだった。

すごい

すごい

会社ってすごい。

メチャクチャ熱い。

ドラマみたいな展開が居酒屋劇場でバシバシ繰り広げられていたよ。

スゲェいいものを魅せてもらいました。

藪ちゃん、いってらっしゃい。楽しんで生きていこうな。

投稿者 多苗尚志 : 22:24
[ 栗原義徳伝村野茉文伝藪下一馬伝森村隆行伝森村泰明伝佐藤孝治伝株式会社オフィスバンク伝縁~出会いの物語 ]

06.05.26 金曜日

太陽モーニング

■友いるバックグラウンドストーリー
※友いる筆者の多苗本人以外の視点で物語を編んでみます。
 憶測の部分もあることを予めご了承下さい。

 
その倭[おとこ]は昔、“釈迦力小僧”と呼ばれていた。

「眠い」とか「腹減った」とかは言うけれども、彼が「疲れた」と言うのを聞いた者はいない。

彼は異常なまでの無尽蔵の元気でシャカリキに毎日を疾走していた。

その小僧は南米に丁稚奉公に渡り、その元気を太陽のレベルまで高め、順調に出世し王子になって
還ってきた。

“太陽王子”岩下均である。

これは彼が“釈迦力小僧”とすら呼ばれていなかった頃の物語。

1997年

東京都北区は王子で小・中・高と学校が一緒だった“咲花青将”佐藤吉行(当時“受切怠惰”)の部屋に岩下はいた。

高校二年生だった岩下は佐藤と学校の宿題をやっていたがそれを終わらせてみてホチキスがないことに気がついた。

岩下が「買ってこようか」といつもの元気を活かそうとすると
吉行は「いいよいいよ。下にあるから。」と答えた。

吉行の部屋は父親の会社の社員寮の1室であり、五階にあった。

下というのは四階にある兄の“柔らかい頭領”佐藤孝治の部屋のことだ。

佐藤孝治は90年代後半からルームシェアを展開しており、今でいうインキュベーションオフィスみたいなものを兼ねていた。

彼自身、事業を展開しようとしていたし、そこでシェアしている仲間たち、そこに集まってくる仲間たちもそうだった。

岩下も1,2回そこを訪れたこともあったが特にビジネスというものには興味がなかった。

ビジネスというと高校生の岩下にはなにか堅い感じがして、邪魔しちゃいけないという気持ちもあった。

今回も部屋の入口で待っているだけだった。

吉行がホチキスをとりにいってるあいだ、手持ち無沙汰だし入口からキョロキョロと室内を伺っていた。

パソコンが数台あって「へぇ」とは思っていたが、さして興味はなかった。

カタカタと誰かしらん数名がキーボードを撃つ音が静かに響く部屋の奥で
「ホチキス無い?」という吉行の声が小さく聞こえる。

飲食店用の四面ガラス張りの大きな冷蔵庫がある。

それをみてちょっといいなぁと思う岩下。

自分の大学生活の部屋にもあんなのがあればいいなぁと思う。

と、その時
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」と
叫ぶ声が聞こえた。

吉行の声ではない。佐藤孝治の声でもない。

誰か。

ここが堅いビジネスオフィスだと思っていた岩下を動揺させるには充分な叫びだった。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

叫び声は更に続いた。

吉行がホチキスをもって還ってきた。

(なんなのあの叫び?)と小声で吉行に聞いてみた。
吉行は(わかんない。なんか興奮してる人がいた)と答えた。

「「お邪魔しましたー」」と2人で部屋を出ていこうとする間際
佐藤孝治の声で
「タナエ君、どうしたの?」という声が聞こえた。
「いや!熱いメールが来たッス。」

意味が分からなかった。

四階にもこんな人がいるんだ。

これが岩下均と多苗尚志の初めての出会いだった。


1998年夏

岩下は他の多くの高校生と同様に三年生の夏を受験勉強に燃やしていた。

吉行の部屋で豪田と一緒に3人で勉強していたところ、突然ドアが空いて侠[おとこ]が入ってきた。

ファッションセンスのかけらもないメガネ。寝ぐせのついた髪、よれよれのトレーナー。

岩下はこの侠があの時のタナエであることを直感で感じ取った。

「吉行君、マガジン無い?」

「え?あ、ありますよ。」と答える吉行から多苗はマガジンを受け取るや、
畳にごろりと寝転がりそれを読み出した。

どうみたって受験勉強してる雰囲気の中にいきなりあがりこんできて
寝転がって漫画を読み出す侠に岩下は少なからず驚いていた。

「あ。タナエさん。僕の友達の均と豪田です。」

「ん?」寝ながら目線を向けられ、岩下は

「あ、岩下と言います。」とあいさつをした。

侠はガバッと起きあがると「多苗と申します。よろしくお願いします。」と言って
またごろりと横になった。

「あの、四階にいらっしゃる方ですよね」と岩下が言うと
「うん。そうだよ。」と多苗は答えた。

「大学にいってらっしゃるんですか?」
「うん。三年です。」
「P大ですか?」
「うん、そう。」
「僕もP大狙ってるんですよ。」
「あ、そう!」と大きな声を出すと多苗は起きて座り、岩下を正視した。
すぐに「頑張るといいよ」と言ってごろりと寝た。

いつまでも話していられないので岩下もそれくらいで勉強に集中することにした。

30分くらいすると、受験生同士、情報交換を始めた。

「P大はさぁ、やっぱ英語ができないと勝負になんないよね。日本史とかさ、差がつかないし、
 現代文は勘じゃん?」と豪田がいう。
「だよなぁ、やっぱ英語かぁ」と岩下も相槌を打っていた。

多苗に横目を向けると全然気にしてないようで漫画を読み耽っていた。

豪田が続ける。「やっぱ単語力が圧倒的に足りないよな。佐伯とかも言ってたけどやっぱ単語覚えないと
話にならないって。やっぱP大いくんだったら最低3000は覚えないとね。単語分かればあとは大体読めるようになるって。」

「そっかぁ」と言ってると、多苗が漫画を置いて座り、こちらを苦虫を潰したような顔でみている。

『なぜ自分にアドバイスを求めないのだ』とでもいうのだろうか。

岩下はそんなことを聞いたら悪いかなと気遣っていたのだ。
多苗はおもむろにしゃべり出す。
「P大を目指すんだったら、現代文こそやらなくちゃダメだ。現代文は勘だと思ってるだろ。
 論理だ。論理が分かればば確実にそれが答えだと説明できるまでになる。英語だって同じだ。
 単語はむしろ少なくたって論理が分かれば勝負できる。岩下君、己が使ってた教材とか貸してやる  よ。」
 
1998年冬
四階のインキュベーションオフィスから飲食店が生まれた。

藤沢烈が経営者となった「狐の木」というBarで岩下も高校生ながら時々遊びにいっていた。

多苗はそこでオープニングスタッフをやっていたようだったが2ヶ月でクビになったらしい。

今では王子を離れて大学の近くで一人暮らしをしているそうだが、1ヶ月に1回は店に呑みにくるという。

岩下は彼女と呑んでいた。

呑むといってもモスコミュールくらいのもんで、彼女はノンアルコールだ。

多苗が店に入ってきて、カウンターに座ったのがみえた。

岩下は少し時間を置いてからカウンターの多苗の方にあいさつにいった。

「どうも。」

「おっ!えーと…吉行君の友達のえーと、均君!」

「はい。岩下です。あの…ちっと俺の彼女紹介したくって。」

「ああ、どうも多苗と申します。」

「あと、あの手紙書いてきたんで後で読んでください。」

「手紙?は。ありがとう。わかった。」

岩下は、お金を払うと彼女と共に店を出た。

「手紙ってなんなの?」と彼女に聞かれ、岩下は
「ああ、まぁ、ラブレターだね。
男にラブレター出すのは初めてだよ」と答え、彼女の不審を思いっきり買った。

岩下は、ラブレターとはいうもののまるで緊張しなかったし
水が高いところから低いところへ流れるように
鮭が生まれた川に戻ってくるように
そうすることが当たり前のような、清々しい気持ちで一杯であった。

そのすがすがしさがまた彼女の不審を買った。

店のカウンターには多苗が尚、座っていた。

なけなしの金でスコッチを傾けながら多苗は岩下からもらった手紙を開けてみた。

『これからは受験勉強に集中するので春まで会えないと思います。
 必ず合格して春からはタナイ兄貴についていきます。
 よろしくお願いします。
 岩下均』
 
多苗がタナイになっているイマイチっぷりはどうかとして、
まぁ、自分も彼の苗字を覚えていなかったのだから。

しかし、なんだか彼は感じるものがあったようで自分についてくるのだということだ。

こっちも彼に正面からつきあってみるとするか。

と、多苗は思った。


岩下は多苗を兄貴と呼んだことはない。

兄貴と字面にして多苗に宛てたのもこれが最初で最後である。

 
だが、確かに岩下と多苗の歴史はこの日動き始めたのだ。


 
■友いる出来事
※実際の出来事です。

“太陽王子”岩下均と渋谷で朝食を一緒に摂る。

ちょっと互いに努力すれば朝飯を一緒に喰う時間を作れると知ったのだ。

ほんの30分しか一緒にいられなかったけれど、こいつと一緒に朝飯を食えるなら
至福です。

投稿者 多苗尚志 : 19:44
[ 岩下均伝縁~出会いの物語 ]

05.10.28 金曜日

和田清かとの縁、私には夢があるとの縁

今では随分有名だが「私には夢がある」という会社がある。

"夢プロデューサー"和田清かが会長をつとめる会社。

己はこの会社の一番古株のスタッフだ。

その縁をたどってみよう。

 
"黄炎社長"森田英一とは古くからの友人である。

その彼に、2002年の3月だったか...彼女ができたから紹介したいと言われた。

それまでわざわざ紹介されたことはなく、これはただごとではないなと思った。

京王線か東横線のどっかの町だったなぁ。

当時はその沿線に明るくなかったので忘れてしまったが、どっかにあった
彼女の家に招待された。

そこで出会ったのが和田清かだった。

招待されていたのは己だけではなくそこで
"駆け抜ける麗玲礼"山西礼子
江澤博己
"大将"池本多賀正
"ギャオギャオなギャオス"長尾好則
"Dreamtextwriter"岩村匠
和田聖翔
といった現在の己の日常生活にも影響のある超豪華なメンツにそこで一気に出会う。(感謝)

清かは己のことを知っていたらしく、年下のくせに初対面から呼び捨てにしてきた。

自分は特別だと思っていて誰だろうがさやか節でぶつかるさやからしい行動だが、
こちらとて"最強無敵"の看板の多苗尚志。

相容れるわけがない。

バッドファーストインパクトだったがまぁ印象には残った。

当時、さやかも己も無職だった。

さやかは起業したいと思って会社を辞めたところだった。

己は仕事なんかしないで友達と毎日遊んでいたいと思って会社を辞めたところだった。

さやかと己はメールをやりとりするようになった。

お互いパラノイアのようにメールを返信するタイプで、ただ一言「了解」なんてメールにも無理矢理返信を続けるのでいつまで経っても往信が途絶えず、

別件で新しくメールを出すとそれがまたずっと続くといった感じで今も続いている。

(一番最多で205往復目。全部足せば1000往復を超える。)

 
彼女とのメールのやりとりには印象的な思い出がある。

さやかが起業したいけどやっぱり怖くてなかなか行動に移せないというメールをくれていて

己も同じようなものでイマイチなにがやりたいか分からないし、行動あるのみだと思うけど、

なかなか行動に移せないという返信をした。

フツー、ここで「ねぇ~、なかなか現実難しいよねぇ」みたいな感じで収束するようなもんだが、

さやかはその恐怖を乗り越えちゃんと「私には夢がある」を起業した。

クチだけじゃなくしっかり結果を出す彼女と結局クチで終わってる自分が見事に対照的だった。

 
さやかはなんにもしないでいるんだったら...と己を第一回目の夢あるセミナーに誘ってくれた。

己は「興味はあるけどお金がなくて」とココでもチキン発言を返したが

さやかが「大丈夫。お金なんて要らないから。それでもしよかったら、受付をやってね。」

と言ってくれた。

さやかだって金があるわけではない。

己はさやかの心意気に感激し、受付をつとめ、以来、夢あるでは"コンプレックスを太陽に変えるひまわり"岩崎久美と同じく最古参のスタッフである。かつ己は最も出席しないスタッフでもある。

更に最も夢あるから受けた恩恵を語らないスタッフでもあるが...

よくよく思い返してみると、その恩恵は多大だ。

"スピードの哲人"清水宣晶とはその後の森田英一・和田清か結婚式で出会ったから正確には夢あるでの出会いではないにせよ、その他のすばらしいスタッフとの出会い、スタッフではなくても夢あるを通して出会った方々とのつながり、夢あるセミナーによる様々な気づき。

さやかと出会っていなかったら、更には夢あるとつながるチャンスをこっちから斬ったのにそれを向こうからあきらめないでつないでくれるというさやかのすばらしい心意気がなかったら、これらの恩恵は今存在していない。

和田清かとの縁に改めて感謝である。

投稿者 多苗尚志 : 10:32
[ 山西礼子伝長尾好則伝池本多賀正伝岩村匠伝和田清か伝森田英一伝縁~出会いの物語 ]

99.08.12 木曜日

夏の英雄日

99年夏、多苗大学三年の夏。

“candyrock=”神田恵介が自ブランドのプレゼンテーションを鹿児島の学生たちに熱望された。

当時、彼のプレゼンテーションを全て目に修めていた己は

今回も当然征くということで、ふたりで鹿児島に飛び立った。

当然、旅費などないのでヒッチハイクで征くことになる。

ケイスケにしてみれば人生初のヒッチハイク旅行で己はそれを先導する。

余裕をみて出ていたので広島に差し掛かった時点で、鹿児島まであと1日余裕がある。

どこかに寄っていこうと話が出たとき、己の頭にフッと

“豪傑”原田広太郎の存在が思い浮かんだ。

奴は福岡の出身でもしかしたら帰省しているかもしれない。

帰省しているかもしれない、というが大学生の夏休みだ。長い休み。

だからこのタイミングで奴が還っているかどうかわからないし、海外にいるかもしれなかったが、とにかく電話してみた。

すると、「おぉ!今年の夏はね、みんなでうちの実家にいこうっていうことでみんな集まっとるばい。ひさし、村上玄ちゃんって知ってたっけ?」

「ああ、知ってるよ。広太郎に紹介してもらった。」

「そうそう。」

「己もね、今九州にきとるんよ。」

「おお!」

「熱い友達と一緒でさ、今日寄ってもいいかい?」

「あ、絶対来て!」

福岡に着くと、昼飯をみんなで喰おうということで

広太郎のお父さんのいきつけのイカの刺身がメチャクチャうまい店にみんなで征くことになった。

広太郎のお父さんがまた豪気という気をまとったような人で気持ちのよさそーな人だった。

日本でも有数の菓子屋の社長であった。

長机に広太郎や広太郎のご家族、友達(境界がよくわからんかった。)、ケイスケと己が
並び今からイカをくわんという時に

“快男児”村上あらしと“京倭”小林篤がコンビで現れた。

今まで色々な名コンビをみてきているし、己自身も誰彼と名コンビを組んでいると思うのだが、

この時のふたりの登場はまさに阿形(あぎょう)と、吽形(うんぎょう)2体で一対の
金剛力士仁王像のようなインパクツ!!!

京都からスポーツカーを飛ばして来たというからかっこいいじゃないか。


あらしは全身黒ずくめで現れた。

己は、広太郎とは個人で仲がイイモノのまだ彼の周りの人脈とは溶けていなかったし、
彼の家族もいわんやをやで、いわばアウェーの場だった。

一方、あらしも似たような状況だったと思うのだが、

彼は初対面の者が多い中、広太郎のお父さんから「君は今なにをやってるんだ」と問われこう答えた。

「自分は今、会社をやっています。今のうちに失敗をしたいと思っています。失敗ほど勉強になるものはありませんから。」

圧倒的な第一印象だった。

あつしは確か、灰色のような、特にハッキリとした服装ではなく、特になんの言動が目立ったわけではなかったが、現れた瞬間に「あ。こいつは己と相当近しい仲になれる」と直感した。

あつしもまたあらしとは違った文脈で誰とでも仲良くやれる気持ちのいい倭だった。

結局、熱い倭と美女たち15人くらいが集まったか。

ざっと名前が思い出せるのが
“豪傑”原田広太郎
 村上玄一
“快男児”村上あらし
“京漢”小林篤
 原田陽太郎
“candyrock=”神田恵介

みんなでとんこつラーメンを食べにいったり、
花火戦争をやったり
サルサバーでサルサを踊ったり
広太郎の実家でギターを弾いたりしてつぶれるまで呑んだり…

もうこのメンバーでの再会はない。

99年、一日だけの英雄日だった。

投稿者 多苗尚志 : 19:12
[ 神田恵介伝小林篤伝村上あらし伝原陽太郎伝縁~出会いの物語 ]

75.09.28 日曜日

奴との初めての出会い

あの縁があったから今がある

そんな話がこちらの『縁』のカテゴリになりやす。

投稿者 多苗尚志 : 23:57
[ 縁~出会いの物語 ]