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06.04.15 土曜日

期待する友人、期待しない友人

昔、中国の洛陽に1人の若者がありました。
名を杜子春[とししゅん]。

貧乏で食うものにも困っていた杜子春が町を歩いているとある老人に出会いました。

老人は「今晩、今ワシが立っているところを掘ってみよ」と言って去りました。

言われた通りにしてみると金銀財宝が車に積みきれない程埋まっているではありませんか。

老人は仙人だったのです。

翌日から洛陽1の大金持ちとなった杜子春は皇帝に負けないくらいの贅沢をしました。

その噂を聞きつけて、今まで杜子春に見向きもしなかった人々が、あいさつにやってくるようになりました。

毎晩、贅を尽くした酒宴を繰り広げ、洛陽では杜子春の屋敷に行ったことがない者はいない程でした。

しかし、それほどの贅沢ですから、三年が経つ頃には杜子春もまた元の貧乏に戻り、あれほどお世辞や追従を述べていた町の人々も飯を恵んでくれるでもなく、あいさつすらしなくなりました。

途方にくれて町を歩いているとあの老人に出会い、また金銀財宝を得ることができました。
そしてまた三年が過ぎ、杜子春はまた貧乏になりました。

するとまた老人に出会い、老人が「今晩、今ワシが立っているところを…」とそこまでいうと
杜子春は言葉を遮りました。

「いや、お金はもういらないのです。」

「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつたと見えるな。」

 老人はいぶかしそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。

「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです。」

 杜子春は不平そうな顔をしながら、つっけんどんにこう言いました。

「それは面白いな。どうしてまた人間に愛想が尽きたのだ?」

「人間は皆薄情です。私が大金持になつた時には、世辞も追従もしますけれど、
一旦貧乏になつてごらんなさい。やさしい顔さえもしてみせはしません。
そんなことを考えると、たとえもう一度大金持になった所が、何にもならないような気がするのです。」


この話は芥川龍之介の杜子春という物語である。

己は小学生の時にこれを読み、大きなショックを受けた。

己は杜子春に、世辞も言わず追従もせず、そして彼が貧乏になった時にあいさつをする侠(おとこ)になろうと決めたのだ。

  
 
今いるあなたの友達はなぜ友達なのだろう。

さすがにお金があるからではないだろう。

そこまで露骨ではあるまい。

ライバルとして共に成長していける仲間だから。

クラスや職場が同じだから。

でも、学校を卒業したら友達を卒業、転職したら友達を転職。

ライバルに足りず、彼が成長することを辞めたら、彼はもはや友達ではないのだろうか。

 
己の周りには、己になにも期待していない友人が数人いる。

彼らは己がなにかを獲得したら、「おー、いいね!」と言うし
己がそれを失ったら「あらら」と言う。

態度はなにも変わっていない。

条件や見返りではなく、ただただ己のことを好きでいてくれるのだ。

期待しない友人というものは素晴らしい。

 
己は時々、この人がどこまで己を許してくれるだろうかとテストすることがあるが
それは己の甘えであり、弱さでもあるだろう。自戒。

投稿者 多苗尚志 : 2006年4月15日 00:11編集
[ 友いる随想 ]

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