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06.04.30 日曜日

おばあちゃんが危篤

おばあちゃんがそろそろ危ないという。

94歳。

最後に会ったのは四年前か。
よく覚えていない。

最後に別れる時、子供のように別れを惜しんだおばあちゃんの姿が思い浮かぶ。

病床で再会したおばあちゃん。
「すごく元気になった!」とみんな喜んでいるが
己にはひからびたようにしか見えない。

おばあちゃんは己を認識するとぱぁっと笑顔を輝かせた。

死を感じる。

フィナーレが伝わっている。

親戚すべて含めると40人くらいいて
その者たちが皆、おばあちゃんの病床へと駆けつける。

この40人がおばあちゃんの人生の成果であることは間違いない。

現在のところ、子孫を遺さないつもりでいる己は
つまり、この40人も自分には確約されないのだということを覚悟した。

 
一生懸命、なにかを話そうとするが入れ歯もないし、衰弱しきっているので
なにも分からない。

なんとか酌もうとする。

「東京から来たヒサシですよ!」というと、表情が明るくなったのだから
こちらが言うことは伝わっているはずだ。

でも、おばあちゃんがなにを言いたいのかは全然わからない。

これこそITをつかってなにかできないものか。

もどかしい。

でも、この際において「正確」は意味をもたないのではないか。

ITをつかっておばあちゃんがいいたいことが正確に己に伝わることと
『おばあちゃん、己になにか言いたいんだ。』
『おばあちゃんが、はっきり物を言えたら己になんて伝えるだろう』と
強く想いをめぐらせることは大差がない。

むしろ後者の方が尊いかもしれない。

そんなことを想った。


いつもおばあちゃんをないがしろにする親父が黙って、ずっとおばあちゃんの顔をみていた。

おばあちゃんの写真も撮ったのだけれど彼女も女だから、ここには載せない。


母親と叔父。

投稿者 多苗尚志 : 2006年4月30日 11:14編集
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