友いる随想

06.08.13 日曜日

暑中見舞

“スピードの哲人”清水宣晶(晶)がある日、己に言った言葉が
今、強い実感をもって響いている。

「ひさしの周りでもだいぶ結婚する友達が増えてると思うけど
 そうすると友情が離れていくようなさみしさを感じないの?」
 
己はその言葉を聞いた当時、まるでピンと来なかった。

『晶ともあろう者が、なにを女々しいことを言っておるのだ』
とさえ思った。

晶は己と同じように友人に価値観を置いている人間で
また1つ歳上のため先に感じたのだろう。

今になって己は全く全身をもってそのさみしさを感じている。

己も31を迎える身となり、周りの友人に変化が起きている。

ひとつは、遠距離。
ふたつに、結婚。
みっつに、仕事。

ひとつめ、遠距離。

小中学校の頃は親の都合で引っ越す程度のものだったが
ここにきて、様々な理由で友は跳んでいく。

転勤・留学・結婚・帰郷・左遷・流刑…


ふたつに、結婚

結婚した者は家庭に入る。子供が出来れば尚更。

みっつに、仕事

仕事に燃えて、仕事で完結する者。

これら3つの変化が周りにあり
この変化を迎えた友人とはつきあいの頻度・形態が変わっていく。

a:「何十年会っていなくても、ひとたび酒を交わせば昨日出会ったかのような感覚を覚える」友人は
もちろんステキだが、ここではそういう話ではない。

b:「互いに昇るフィールドは違えども、
 あるいはフィールドが同じでもそれぞれ東西南北、それぞれのやり方で山を昇り始め、
 それぞれに楽があり、苦難があり、
 山頂で再会し酒を交わす時にそれら苦楽を分かち合う」友人は
もちろんステキだが、ここではそういう話ではない。

いや、正直申しまして、ここではそういう話ではないのではなくて
己はそのつきあいでは満足できない、というのがより誠実だ。

例外として、aとb、どちらのタイプか
ハッキリと己が意識しているならば満足できる。

例えば、aのタイプの友人として
松村洋祐や丸山晶太郎、丸山耕次郎、金房智子、
“キン肉パスタ”川島賢一、“S山下の男と女コラム”山下祥代…等の方々。

たぶん、家族に近いと思う。
幼少を共に過ごした者、ルームシェアで毎日一緒だった者。
家族は、家を離れても家族なのだから。

例えば、bのタイプの友人として
“candyrock”神田恵介、“childman筆頭”鈴木智也、“伊厨紳士”山本慎弥、
“復活の闘魂野郎”渡辺エイジ、“ケンシロウ”仁藤和良、“オニイサンオブマツダ”松田能成、
“最強弁士”外木暁幸…等の方々。

大学時代に会った友が多い。

大学では、毎日会う友達はおらず、学部が違ったり大学外の友達が多かった。


彼らと長い時間会わないことはストレスではない。

しかし、aかbにハッキリ当てはまらない他の多くの友人、彼らとは今を生きていたい。

今を共に分かち合いたい。

分かち合いたい。

これは己の人生の大きなテーマだ。
 

己たちはこの世に生まれ落ちて「感じる」んじゃないかな。

「感じない」ことは死だ。

生きている限り、狂っていようが、ボケていようが感じている。

感じたら、それを分かち合いたい。

孤独になった者が独り言を発してしまう気持ちはよく分かる。

文章に起こす、体を動かす。

アクションは、他との分かち合い、他の反応、他からの反応を求めるものである。

自己の確認を目的としたアクションですら、自分の中にある客観性(他者性)を必要とする。

感じること。他と感じ合うことはこの世においてとても尚(とうと)い。

尚いかどうか分かんなくたって、あんたは既にそうしてる。

だから、芸術は尚い。人を感じさせる者(芸能人・歌手・作家etc)は重宝される。

だから、ビジネスは尚い。人のニーズを無視したビジネスは成立しない。

だから、ボランティアは尚い。与える与えられる関係など飛び越えて感じ合うのだ。

だから、感じ合う相手である他人は尚いんじゃないか?

だから、家族だろ?恋人だろ?友人だろ?

「共感」が尚い。

己は、より多くの人と、より深く、同じ地平で「共感」したい。

 
友達が離れていくことを嘆く。

それは己が幼いさみしがりやだからだろうか。

恋愛における「依存」よろしく
他者という外部変化要因になにかを望むことは間違っているだろうか。

そうではないと、友よ、君に伝えたい。

だが、求めるにはそれだけの器も必要となる。

己は努力しよう。

友のいる人生のために。

投稿者 多苗尚志 : 19:48 | トラックバック (1)
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06.04.15 土曜日

友いる論1

ここで友いる論を展開してみる。
そう思ったのは“藍田玉を生ず”五十川藍子とのコーヒーがきっかけ。

special thanks!!!



己は友と生きることを価値としている。

なんでそこに価値を置くようになったかという理由を考えるに
一人っ子として育ち、さみしさを感じる機会が多かった
などが挙がるかもしれないが、定かではない。

どうしてよりも、今そうなんだからその話をしよう。

己の場合、友というのは自分が出会う人全員であり
今会ったばかりの名前も知らない人も友人である。

これは己の場合であるし、
徹底してこれを遂行できているかというとダメな時もあり、
理屈上はそうであり、そうなりたいと思ってところなので
あまり気にせず、一般的に「ああ友人ね」とあいまいに思っていただければいい。

人によって価値観は大きく違うだろう。

なにかを達成すること・自分自身のチャレンジに価値を感じる
人もいるだろうし

困っている人を助けることに価値を感じる人もいるだろう。

そこは多種多様である。

己は今から友と生きることの素晴らしさを訴えたい。

あ、それもいいかもねーと共感して頂いたり、
今までより更に己とのつきあいを深めていただける助けになったらとてもうれしい。


さて

村上春樹さん風に言えば、我々人類は皆、宇宙船に乗って宇宙を旅しているようなものかもしれない。

宇宙船の窓からお互いを覗いてみるが、一部分しかみえないし、互いの中に入り込めはしない。

人類には愛という感情が備わっていて、触れあいたいと思うが触れあえることにも限界がある。

そこにもどかしいさみしさを感じないだろうか。

そういうもんよ、で終わりかナァ。

その人に触れたいとかもっと知りたいと思うことは愛である。

小さな窓から相手をうかがい知ることしかできないが
己はもっと多くの人をより深く愛したいし、愛されたい。

この人生という宇宙を共に旅している友たちを愛おしく思う。

投稿者 多苗尚志 : 00:13 | トラックバック (0)
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友いる論2

自分が何かを発見したり、何か大きな感情を得ても、
その自分が感じた通り100%相手に伝わることなどない。

ワールドカップをスタジアムで観たり、ライヴハウスで好きなアーティストを楽しむ時
そこにあるのは一体感である。

このスタジアムを埋めてる皆の名前はもちろん知らないし、
お互い顔すら見ないで家に還ってしまうかもしれない。

でも、100%とは言わないが高い確度でここにいる皆、同じ事を感じてるよね。

というのが一体感の正体だ。

己はその一体感を求めている。

投稿者 多苗尚志 : 00:12 | トラックバック (0)
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友いる論3

愛なのだ。

家族に対して、恋人に対して、友人に対して

すべて同じだ。

その人を愛しく思い、その人に触れたい、その人を知りたいと思う。

それは愛である。

その愛ということ自体がまた愛おしく尊いではないか。

己はその人が好きだから愛するだけではなく

愛するから、その人を好きになるということを試みたい。

投稿者 多苗尚志 : 00:12 | トラックバック (0)
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友いる論4

友達多いみたいですけど親友(※)って誰ですか?

よく聞かれる質問だ。

その質問は広さと深さは両立しえないという前提に立っている。

両取りでいいじゃない。

親友が100人、1000人いたらいいじゃない。
 
 
 
 
※己は親友って言葉は使わない、使えないけど。ここでは世間一般のイメージにのっとって親友という言葉を使用。

投稿者 多苗尚志 : 00:11 | トラックバック (0)
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期待する友人、期待しない友人

昔、中国の洛陽に1人の若者がありました。
名を杜子春[とししゅん]。

貧乏で食うものにも困っていた杜子春が町を歩いているとある老人に出会いました。

老人は「今晩、今ワシが立っているところを掘ってみよ」と言って去りました。

言われた通りにしてみると金銀財宝が車に積みきれない程埋まっているではありませんか。

老人は仙人だったのです。

翌日から洛陽1の大金持ちとなった杜子春は皇帝に負けないくらいの贅沢をしました。

その噂を聞きつけて、今まで杜子春に見向きもしなかった人々が、あいさつにやってくるようになりました。

毎晩、贅を尽くした酒宴を繰り広げ、洛陽では杜子春の屋敷に行ったことがない者はいない程でした。

しかし、それほどの贅沢ですから、三年が経つ頃には杜子春もまた元の貧乏に戻り、あれほどお世辞や追従を述べていた町の人々も飯を恵んでくれるでもなく、あいさつすらしなくなりました。

途方にくれて町を歩いているとあの老人に出会い、また金銀財宝を得ることができました。
そしてまた三年が過ぎ、杜子春はまた貧乏になりました。

するとまた老人に出会い、老人が「今晩、今ワシが立っているところを…」とそこまでいうと
杜子春は言葉を遮りました。

「いや、お金はもういらないのです。」

「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつたと見えるな。」

 老人はいぶかしそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。

「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです。」

 杜子春は不平そうな顔をしながら、つっけんどんにこう言いました。

「それは面白いな。どうしてまた人間に愛想が尽きたのだ?」

「人間は皆薄情です。私が大金持になつた時には、世辞も追従もしますけれど、
一旦貧乏になつてごらんなさい。やさしい顔さえもしてみせはしません。
そんなことを考えると、たとえもう一度大金持になった所が、何にもならないような気がするのです。」


この話は芥川龍之介の杜子春という物語である。

己は小学生の時にこれを読み、大きなショックを受けた。

己は杜子春に、世辞も言わず追従もせず、そして彼が貧乏になった時にあいさつをする侠(おとこ)になろうと決めたのだ。

  
 
今いるあなたの友達はなぜ友達なのだろう。

さすがにお金があるからではないだろう。

そこまで露骨ではあるまい。

ライバルとして共に成長していける仲間だから。

クラスや職場が同じだから。

でも、学校を卒業したら友達を卒業、転職したら友達を転職。

ライバルに足りず、彼が成長することを辞めたら、彼はもはや友達ではないのだろうか。

 
己の周りには、己になにも期待していない友人が数人いる。

彼らは己がなにかを獲得したら、「おー、いいね!」と言うし
己がそれを失ったら「あらら」と言う。

態度はなにも変わっていない。

条件や見返りではなく、ただただ己のことを好きでいてくれるのだ。

期待しない友人というものは素晴らしい。

 
己は時々、この人がどこまで己を許してくれるだろうかとテストすることがあるが
それは己の甘えであり、弱さでもあるだろう。自戒。

投稿者 多苗尚志 : 00:11 | トラックバック (0)
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06.04.07 金曜日

友いるをつづっていて思うこと その2

最近、更新が遅れていて1ヶ月差くらいついていましたが
ここで一気に取り戻しました。

間違いなく写真の力ですね。

写真があるのと無いのとでは記録する方もイマジネーションがまるで違いました。

 
このブログ1年続いたんですね。
 
自画自賛なのですがこの「多苗尚志の友のいる人生KI」は素晴らしいと思う。

世界中にブログあまたあると言えど、猫も杓子もブログと言えど
こんなブログをやってる奴はいないのではないか。

新ジャンルだと思ってます。

カテゴリーが最大のミソです。

いつか誰かの感動を呼ぶかもしれない。呼んだらいいナァ。

というわけで
「友いるってブログがあってありがとう。私泣いちゃったよ。」という報せが
己に来るか十年(だからあと九年ね)経つまで続けます。

いや、五年かなぁ己の場合。

投稿者 多苗尚志 : 11:16 | トラックバック (0)
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05.11.08 火曜日

10000アクセスありがとう

うれしい。

続けてみますね。

投稿者 多苗尚志 : 11:01 | トラックバック (0)
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05.11.02 水曜日

120アクセスって

初。

みんなピアニッシモみてくれたんだね。

みんな読んでくれてるんだなぁ。

このブログはコメント機能をつけてないけど
みんなの存在を感じるよ。

ありがとう。

投稿者 多苗尚志 : 13:22 | トラックバック (0)
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05.09.20 火曜日

ちなみに

今回新しくなったケータイはPENCKです。

ものすごおおおおおおおおおおおおく気に入ってます。

デザイン、使い勝手、機能どれも最高。

http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0502/24/news018.html

投稿者 多苗尚志 : 10:59 | トラックバック (0)
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ともめいげん

友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。
正しいときにはだれだって味方になってくれる。 -マーク・トウェーン-

ああ。これ名言。

投稿者 多苗尚志 : 09:55 | トラックバック (0)
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05.08.02 火曜日

あー

またケータイが水没しました。

海水没なので乾かしても息を吹き返しません。

己のケータイで畳で死ねたのって一台くらいしかないわね♪

うっふふ。

しばらくケータイ無しで生活します。

 
平日PCメールのみで連絡いただければと思います。

友いる的には写真がとれないのが痛いですね。

投稿者 多苗尚志 : 11:32 | トラックバック (0)
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05.07.28 木曜日

ビビッとくる相手

パッと出会ってビビッと来る相手はいるものだ。

“まつけいさん”松本圭介の例を挙げよう。

 
まつけいさんとは6月の川井拓也氏のイベントで出会った。

その時は、一瞬も話せず、終了間際に名刺交換しただけだったが
己は、この人の目と声と立ち振る舞いに遭ったときに
絶対この人とサシで語りたいと思った。

んで、その後名刺を頼りにメールするわけだが、

なんの話もしてないので、

「このたびはありがとうございました。
  
 またお会いできる日を楽しみにしています。
 orまたお会いしました時にはどうぞよろしくお願いします」

くらいのあいさつが関の山だろう。

あるいはあいさつメールもしない。

だが、己はまつけいさんとどうしてもサシで語りたかったので

「このたびはありがとうございました。
 
 今度サシで呑みましょう。」
 
とあいさつした。

どうしても語りたい割にこのあいさつはどうだろう。

どうにもぶっらぼうで無礼ですらある。

「どうしても」というなら、相手のどこに感じて自分にどういうフックがあるから語りたいということを述べるべきであろう。

でも、己はそうしない。

今までこれでうまくやってきたから。
(めんどくさいし)

これでダメなら縁が亡かったということだ。

そして、ほら。

まつけいさんとは呑めたでしょ。

投稿者 多苗尚志 : 10:21 | トラックバック (0)
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